米倉寺の見所

梵鐘

中井町指定重要文化財 第16号
寛永7年(1612年)鋳造
昭和60年4月1日指定
高さ110cm・下辺の口径60cm・重量225kg

梵鐘の製作は寛永7年(1630)6月27日、これも五所宮八幡の梵鐘同様、古鐘であったため第二次大戦の金属徴収令を免れた由緒がある。この鐘は米倉寺の前庭で鋳造されたと伝えられ、鋳工は宮崎与次兵衛とある。鐘の表面にはぎっしりと願文が刻まれ、この梵鐘は当時の井ノ口村の地頭であった米倉平太夫繁次をはじめ、家々僧俗、無名の人々の心からの寄進による米穀・綿布・金銀鉄銅・その他溶かせる金属類等によって作られ、祈りが込められていることが伝わってくる。

この鐘は昭和30年頃までは午前11時になると撞かれ、中井町の全域に響き渡って重宝がられた。「あの鐘が鳴ると腹がへった」と語る老農もいる。(『中井町史』ママ)

本堂大間・内陣の欄間彫刻六基

中井町指定重要文化財 第17号
天保3年(1832年)
昭和60年4月1日指定

本堂大間正面
中央 「龍と雲と波」 縦60㎝横210㎝
左右両側 「唐獅子牡丹」 縦96㎝横176㎝

内陣正面
中央 「飛龍と雲と波」 縦50㎝横214㎝
左右両側 「麒麟に雲と波」 縦70㎝横176㎝

大間右側の欄間の裏に墨書があり、この彫刻が天保3年(1832年)11月に大野原太郎兵衛・松本善蔵の両名によって寄進され、製作者は二宮町梅沢の住人、杉崎佐吉政貴であることがわかる。松崎佐吉は町内半分形地区の山車の彫刻制作者でもあり、その手法、自柄などから一見しても同一人物の作とわかる逸品である。(『中井町史』ママ)

米倉一族の墓石・供養塔十基

中井町指定重要文化財 第18号
慶長5年(1600年)~天和3年(1683年)
昭和60年4月1日指定

墓石・供養塔合わせて10基は井ノ口910番地、米倉寺墓地内にある。この墓と供養塔は甲州武田家臣で、後に徳川家康の旗本になった米倉丹後守種継と、子平太夫繁次並びに孫の権平(つぐひら)一族の墓石と供養塔である。

①観音立像塔 =高さ132cm 泰寿院殿本応清智大姉  天和3(壬亥)年5月8日(米倉平太夫息女)
②一枚石塔 =高さ216cm 米蔵院殿無常道心居士  寛永13(丙子)年4月8日(米倉丹後守種継)
➂一枚石塔 =高さ188cm 瑞安妙光禅定尼 元和3(丁丑)年7月朔日
④五輪塔 =高さ175cm 法室栄輪禅定尼 寛永29年霜月18日(米倉平太夫息女)
➄五輪塔 =高さ147cm 心叟浄本居士 慶安2(己丑)年霜月19日(米倉平太夫繁次)

⑥五輪塔 =高さ155cm 即応常信禅定門 寛文3(癸卯)年7月25日(米倉権平)
➆宝篋印塔 =高さ231cm 無常道心居士 寛永13(丙子)年4月8日(この米倉丹後守種継の供養塔である)
⑧宝篋印塔 =高さ236cm 正与妙光禅定尼 慶長5(庚子)年4月6日
➈宝篋印塔 =高さ253cm 光庵寿清大姉 正保2(乙酉)年霜月19日(米倉安左衛門室)
➉宝篋印塔 =高さ244cm 心月宗頓禅門 正保3(丙戌)年正月16日(米倉辰蔵) (『中井町史』ママ)

子育水子地蔵

関東百八地蔵尊 第九十四番札所

 山門を入った参道脇の地蔵壇に「子育水子地蔵尊」が祀られている。 昭和53年(1978年)に曹洞宗梅花流水子地蔵御和讃ができた折、当山29世の発願で建立されたものである。
 また、堂内には「延命地蔵尊」が安置されている。

左甚五郎作と伝わる「阿吽の竜」

左甚五郎について

「左甚五郎」は江戸前期に活躍した宮大工であり、講談・歌舞伎・落語などで多く取り上げられ、日光東照宮の「眠り猫」の彫刻などで知られるが、その生涯の多くが謎に包まれている。また、甚五郎作と伝わる彫刻は全国各地に100箇所近くあり、その製作期間も安土桃山時代から江戸時代後期まで300年にも及び、出身地もさまざまであるため、左甚五郎とは、1人ではなく各地で腕をふるった工匠たちの代名詞としても使われていたようである。

米倉寺の「阿吽の竜」の伝承

寛永寺の鐘楼を造営する際、〔4本の〕柱それぞれに、名工を4人集め1匹ずつ竜を巻き付かせる計画が持ち上がり、〔飛騨の匠〕甚五郎にも白羽の矢が立った。そして、〔飛騨から〕仲間と共に江戸へ向かう途中、この地にやってきた甚五郎は米倉寺で寛永寺の鐘楼の柱に巻き付ける竜の試作を行ったとされる。その後、甚五郎の才能に嫉妬したのか、仲間たちが「ここは師匠を立てて、寛永寺の竜の彫物は師匠に譲ってはどうか」と持ち掛けるが、甚五郎はこれを断る。

仲間たちは「利き腕が使えなければ、さすがに譲るだろう」と甚五郎の利き腕である右の肘を鑿でついてしまう。しかし、甚五郎はそれでも「自分が彫る」という意思を示し、左腕一本で寛永寺の鐘楼の柱に竜を彫り上げる。出来上がった竜の彫物は、他の名工に比べると明らかに見劣りするものであったが、夜になると最も迫力があり、夜な夜な不忍池で泳いだという噂が広まった。その噂が米倉寺のあたりにまで届き、「それなら米倉寺の竜も動き出すのでは…」として、『かながわのむかしばなし50選』「水を飲みに出た竜」ができたようである。

「水を飲みに出た竜」

『かながわのむかしばなし50選』(昭和58年 神奈川県教育庁 文化財保護課 編著)

あらすじ
ある年の夏、米倉寺から葛川(寺の近くの川)にかけて田畑が何者かに荒らされていることがあった。それは作物が盗まれるのではなく、なぎ倒すようにして二筋の道ができていた。ある夜のこと、あるばさま(おばあさん)が葛川で泳ぐ竜を見かけ、そのことを村の衆に話したが、「あれは彫物の竜だぜ?」と村の衆も半信半疑であった。しかし、竜を見に行くと、その身体はビショビショに濡れ、田畑の土が付いていた。「野荒らしをしていたのは竜だ!葛川へ水を飲みに出たんだ!」ということになり、村人達は竜が水を飲みに出られないように、目に角釘を打ち込み、身体を細切れにしてしまった。

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