米倉寺の歴史

米倉寺について

井寶山(せいほうざん)米倉寺(べいそうじ)と号し、曹洞宗に属する。
本尊は釈迦牟尼仏。

歴史

天文元年(1532年)の開創で、開山は天宥宗高大和尚(秦野市山下の米倉一族の菩提寺である藏林寺の二世)。
もともとこの地には用国院という寺院があり、伊豆の最乗寺直末である普門院を本寺と仰ぎ、宮の鳳安寺を末寺に従えていた。 その後、甲斐武田家の家臣であった米倉丹後守種継公が井ノ口に移住してきた際に、両親追善と自己安住のため、甲州恵林寺と同宗であったこともあり 、 自身の菩提所と定め、用国院を再建して米倉寺と改名した。 その後、蔵林寺の末寺となり、鴨沢の大泉寺を末寺とした。

江戸時代末期に寺子屋を兼ね、やがて、井ノ口小学校の前身である誠成館に発展した寺であり、学校が独立した後には井ノ口村役場となり、昭和に入ってからは託児所、疎開児童の受け入れ等を行った。 本堂は正保2年(1645年)に焼失し、慶安2年(1649年)に再建された。 その後、天明2年(1782年)に本堂を再建し、平成に入るまで木造萱葺であった。
本堂内陣は現在でも再建当時の天明年間の材がそのまま使われている。

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