梵鐘の製作は寛永7年(1630)6月27日、これも五所宮八幡の梵鐘同様、古鐘であったため第二次大戦の金属徴収令を免れた由緒がある。この鐘は米倉寺の前庭で鋳造されたと伝えられ、鋳工は宮崎与次兵衛とある。鐘の表面にはぎっしりと願文が刻まれ、この梵鐘は当時の井ノ口村の地頭であった米倉平太夫繁次をはじめ、家々僧俗、無名の人々の心からの寄進による米穀・綿布・金銀鉄銅・その他溶かせる金属類等によって作られ、祈りが込められていることが伝わってくる。
中井町指定重要文化財 第18号
慶長5年(1600年)~天和3年(1683年)
昭和60年4月1日指定
墓石・供養塔合わせて10基は井ノ口910番地、米倉寺墓地内にある。この墓と供養塔は甲州武田家臣で、後に徳川家康の旗本になった米倉丹後守種継と、子平太夫繁次並びに孫の権平(つぐひら)一族の墓石と供養塔である。
①観音立像塔 =高さ132cm 泰寿院殿本応清智大姉 天和3(壬亥)年5月8日(米倉平太夫息女)
②一枚石塔 =高さ216cm 米蔵院殿無常道心居士 寛永13(丙子)年4月8日(米倉丹後守種継)
➂一枚石塔 =高さ188cm 瑞安妙光禅定尼 元和3(丁丑)年7月朔日
④五輪塔 =高さ175cm 法室栄輪禅定尼 寛永29年霜月18日(米倉平太夫息女)
➄五輪塔 =高さ147cm 心叟浄本居士 慶安2(己丑)年霜月19日(米倉平太夫繁次)
「左甚五郎」は江戸前期に活躍した宮大工であり、講談・歌舞伎・落語などで多く取り上げられ、日光東照宮の「眠り猫」の彫刻などで知られるが、その生涯の多くが謎に包まれている。また、甚五郎作と伝わる彫刻は全国各地に100箇所近くあり、その製作期間も安土桃山時代から江戸時代後期まで300年にも及び、出身地もさまざまであるため、左甚五郎とは、1人ではなく各地で腕をふるった工匠たちの代名詞としても使われていたようである。
寛永寺の鐘楼を造営する際、〔4本の〕柱それぞれに、名工を4人集め1匹ずつ竜を巻き付かせる計画が持ち上がり、〔飛騨の匠〕甚五郎にも白羽の矢が立った。そして、〔飛騨から〕仲間と共に江戸へ向かう途中、この地にやってきた甚五郎は米倉寺で寛永寺の鐘楼の柱に巻き付ける竜の試作を行ったとされる。その後、甚五郎の才能に嫉妬したのか、仲間たちが「ここは師匠を立てて、寛永寺の竜の彫物は師匠に譲ってはどうか」と持ち掛けるが、甚五郎はこれを断る。
『かながわのむかしばなし50選』(昭和58年 神奈川県教育庁 文化財保護課 編著)
あらすじ
ある年の夏、米倉寺から葛川(寺の近くの川)にかけて田畑が何者かに荒らされていることがあった。それは作物が盗まれるのではなく、なぎ倒すようにして二筋の道ができていた。ある夜のこと、あるばさま(おばあさん)が葛川で泳ぐ竜を見かけ、そのことを村の衆に話したが、「あれは彫物の竜だぜ?」と村の衆も半信半疑であった。しかし、竜を見に行くと、その身体はビショビショに濡れ、田畑の土が付いていた。「野荒らしをしていたのは竜だ!葛川へ水を飲みに出たんだ!」ということになり、村人達は竜が水を飲みに出られないように、目に角釘を打ち込み、身体を細切れにしてしまった。